わたしのきおく

2016年5月26日

被爆体験をした祖母の話をたどって

1982年・・・
「天井に穴あいとるね?」小学3年生のボクは、横になって休んでいるばあちゃんのそばで天井を見上げ、そう訊いてみた、さくらの大黒柱の古い大きな家で、天井はかなり高い位置にあった。
子供の目線からは目立つような場所ではないが、寝転がると天井の板の一部分がめくれあがっているのがわかる。
気のせいか、日の光が差し込んでいたような気もする。
大正14年生まれのばあちゃんは当時58歳、脳梗塞で半身麻痺をしていたが、勝ち気な性格が幸いしたのか、つえをついて歩き、生活のたいていのことは自分でこなしていた。

「ありゃあね、ピカドンよ、ピカドンでああなったんよ」動くほうの腕で天井を指さしばあちゃんは言った。
原子爆弾の爆風により、天井の一部が壊れたというのだ。
「家燃えんかったん?」「ほうじゃねこのへんはね、ほいでも、ピカドンにやられた人をね、助けにいったんよ、ひどいんよ、ほんまにひどいんじゃけぇ!」

原爆投下後の昭和20年8月6日、原子爆弾の被害により負傷した人々は、広島市の郊外に助けを求めて次々とやってきたのである。
阿鼻叫喚のごとし混乱のさなか、病院、診療所で対応できる負傷者の数はその限界を超えており、まともな治療体制を敷くのは困難を極めたに違いない。
負傷者が集まってきた場所が自然と避難所になっていたような状況であった。そこへばあちゃんは、救護班の手伝いとして声がかかったのだという。

「手をだらーっと垂らしとってね、服もぼろぼろになってから、知っとるもんがかおー見ても誰かはぁわかりゃーせん(知り合いが顔を見ても、もう誰かわからないくらいにやけどを負っている)」「横になって寝かされとるんじゃけど、みな、ひどぉやけどしとってから」
「やけどしとるけー喉が渇くんじゃろうね、水ちょうだい、水ちょうだい、言うてから」「ほいでもね、水は絶対やっちゃーいけん言われとったんよ、水をやってしもうたら、息をせんようになるんよね」
「じゃけど、あまりに苦しんどるけぇ、皆と相談してね、最後じゃけぇ飲ませてあげようや、いうことになって、あげたんよ、ほしたらね、いままで苦しんどったんが、極楽におるんじゃなかろうかいうくらいにっこりしてからね、ありがとういうんよ」

その後、ばあちゃんとの別離は13年後にやってくるのだが、その13年間、ボクは戦争のことをばあちゃんに聞くこともなく、ばあちゃんからも話してくれることもなかった。
ただ、毎年8月6日には、広島市の平和記念式典の中継をテレビを見て、静かに手を合わせるばあちゃんの姿をよく覚えている。
そんなばあちゃんはこんなふうに言っていた「kくんが大人になったころ、せんそうが起きるような気がするんよ、そうならにゃあいいんじゃけどね、心配なんよ」

2014.7.1 記



戦後から70年近く経った今、戦争の直接体験を見聞する機会が減少してきており、そのことが各所で危惧されている。私も、祖母の話は言葉からのイメージ止まりとなっていて、それ以上の詳細を掘り下げることができずにいた。
そんな中、平和記念資料館の中に、「被爆後の救護活動」についての資料があり、その内容が非常に興味深かった、まさに自分が祖母から聞いた話のイメージを、展示物の解説や写真という事実に重ねることができた瞬間だった。

いち早く始まった救援・救護活動
全市が壊滅状態の中で、被害が少なかった宇品の陸軍船舶司令部所属部隊(通称「暁」部隊)は被爆直後から独自の救護活動に入り、消化・救難活動や負傷者の似島への輸送などを行いました

原子爆弾による被害は、瞬時に全市に及びました。官公庁は壊滅状態となり、通信や交通機関も麻痺しました。こうしたなか、被爆直後から救護活動が始まり、翌日には軍・官・民一体となった活動が計画され、負傷者の救急処置、救護所への搬送、遺体の処理、食料の配給などが行われるようになりました。

郊外へ避難する被爆者と市内に向かう救援
負傷しながらも動くことのできる被爆者は群れをなして郊外へと避難しました。市内へ逃れた被災者は推定15万人といわれます。一方、周辺の市町村から救援や炊き出しのために警防団などがぞくぞくと広島に入りました。県内各地や県外からも医師や医療救護班がつぎつぎと到着しました。

海外からの医療救援・救護
被爆者の悲惨な状況を知った赤十字国際委員会駐日主席代表マルセル・ジュノー博士は、連合国軍総裁司令部(GHQ)に交渉して約15トンの医薬品を入手しました。9月8日広島に入り、医薬品を広島県知事に渡し、自らも被爆者の治療にあたりました。

こうして、解説文や写真を見ていると「実物の資料を見て知る」という努力は怠ってはならないと思った。そして、戦争による惨禍、その時に起きた出来事は何であったのかを次の世代に伝えていく、そういった努力が今の平和の土台となっていることを痛感したのであった。

平和記念資料館の南側には、被爆後、原爆で家族を失った子供たちへの支援や、原爆の後遺症の治療活動へ尽力したノーマン・カズンズ(1915~1990)の碑がある、その碑にはこう刻まれている「世界平和は努力しなければ達成できるものではない 目標を明確に定め責任ある行動をとることこそ人類に課せられた責務である」